障害とは

掲載日:2011年9月26日

更新日:2014年10月18日

◆ 障害っていったい何でしょう。

「障害者」と呼ばれる人がいます。その対局に「健常者」とよばれる人の集団があるわけですが、何をもって「障害者」、何をもって「健常者」と言うのでしょうか。

日本社会で唯一基準があるのは「身体障害者手帳の交付」ということです。
数値的基準が設けられてその基準に合致した人に交付されます。
行政はこの手帳を所持している人に対して施策を執行していきます。
ですので、障害者手帳を所持している人だけがこの施策の対象となるのです。
手帳交付は申請により交付されるものですので、全盲でも申請をしなければ手帳が交付されることはないので、いくら全く見えなくても「障害者」として認められないのです。

身体障害者手帳が交付される基準は全て数値で示されますが、
その数値を超える人には障害(不便・困ること)はなく、その数値内の人は障害(不便・困ること)の状況におかれていると考えていいのでしょうか。
一定の基準が必要ですから、数値で区切らなければならないことは仕方ないことですが、
例えば同じ0.1という視力の持ち主であっても、その人の生き方や周囲の環境(*)で「生活のしづらさ(障害)」が生じるのかどうかは大きく左右されるのではないでしょうか。

では0.2ならば障害(不便・困ること)はないのでしょうか?
0.3の人は? 0.5ならば障害(不便・困ること)はないのでしょうか?

逆に健常者って、どれだけ見えたら健常者なのでしょうか。
1.0ですか?0.7ですか?0.5ですか?
「日常生活に支障がなければ・・・」ですか?
「見えないですが、日頃は見えないことを忘れてしまっている感じで生活しています」
という全く「見えない人」もいます。
つまり、この人は日常生活に支障なく暮らしているのですが、健常者なのでしょうか?

いわゆる障害者と呼ばれる人(身体機能が違う人)であっても、
障害(不便・困ること)を生じさせないユニバーサル製品を利用したり、障害(不便・困ること)を取り除く工夫がされた製品を利用したり、周囲の人の配慮があったりということで、障害(不便・困ること)は、どんどん減っていくのです。

いわゆる健常者であっても、製品の使い方が理解できなかったり、現在は健康であっても過去の疾病歴などから、いわれのない差別を受けたり、周囲の人が非協力的だったりすることで障害(不便・困ること)が生じるのではないでしょうか。

このように
その人の身体機能がどうであっても、
その人に関わる様々な生活環境(*)が、どういう状況であるかによって、
障害(不便・困ること)が減じたり無くなったり、増えたり生じたりするのです。

(*) その人に関わる人の心が、その人を理解し受け入れ好意的な態度であるかどうか。
  その人の利用するサービス・情報提供・制度などで差別を受けていないか。
  その人にとって使い方を熟知した使いやすい道具があるか、
  その人の移動に必要な手段・安全・情報が確保されているか
  など。

◆ 現代における「障害」の世界的考え方・・・

~ 社会環境が障害を生み出している ~

世界保健機関(WHO)は、2001年に国際生活機能分類ICF(国際障害分類改訂版)を発表しました。

以前には障害は
「その個人の心身の機能障害(Impairment)」があることで
「能力低下」(Disability)が生じ
機能障害や能力低下の結果としてその個人に生じる「社会的不利」(Handicaps)が生まれる。といった障害はその原因を、個人の医学的な心身機能に起因するものとしてとらえていました。

しかし、人は社会環境と大きく関わって生活していることから、国際生活機能分類を制定しました。

日本の政府も、保険・医療・福祉・教育・行政などすべての職域、領域を超えて、国際生活機能分類を共通の概念、用語として用いるということを決めました。

国際生活機能分類は疾病や障害の有無に関わらず、すべての人が生活の中で関る健康上のあらゆる問題について、共通した見方やとらえ方をします。
「人の生活機能は環境との相互作用で大きく左右される」という視点でとらえています。

心身の機能が損なわれていたとしても、それが障害になるかならないかは社会環境(物理的・制度的・文化的・周囲の人の心)によって大きく変化します。
また、心身機能が同じ状態であっても、その人がどのような背景(個人因子)をもち、どこでだれと(環境因子)生活するかによって、日々の生活における活動や参加の状態は異なります。

「社会環境のあり方がどのようになっているか」
という点を抜きにしては「障害」を正しくとらえることはできない。
というのが世界的な考え方なのです。

◆社会環境のあり方で、障害(不便・困ること)はどうなるのか

★ 車いす使用の人には

  •  建物の内外に段差がない
  •  垂直移動にはエレベーターがある
  • 扉は自動あるいは引き戸で開閉が容易

などでしたら、障害(不便・困ること)はなくなっていきますが、
これが

  •  美しいエントランスだが、微妙な段差がある
  • エレベーターはあるが、エレベーターホールまで数段の階段がある
  • 立派なまるで調度品のような重厚な扉が入り口にある

といった建物でしたら移動の障害(不便・困ること)が起こり、参加が阻害されますし、心理的にも疎外感「仲間はずれにされた」という傷を負うことにもなります。
※決して美しい建物がいけないと言っているのではありません。

★ 聞こえない・聞きにくい人には

  • 駅構内や車内アナウンス、館内放送の内容が見やすい文字情報で表示される
  • 対話の相手が手話や筆談での会話に快く対応する

などでしたら、障害(不便・困ること)はなくなっていきますが、

    これが

  • お知らせは音声による放送だけ
  • 対話の相手が「めんどうだな」と思いながら筆談する

といった状況でしたら、情報障害(不便・困ること)が起こりますし、
心理的にも疎外感「仲間はずれにされた」という傷を負うことにもなります。

★ 見えない・見えにくい人には

  • 大きく見やすい文字、および音声や点字での情報提供がある
  • 点字ブロック、音声案内や人的サポートの制度が充実していて、歩行に必要な情報が容易に得られる

などでしたら、障害(不便・困ること)はなくなっていきますが、
これが

  • 文字情報だけでの情報提供しかない
  • 視覚以外の歩行に必要な情報が存在しない

といった状況でしたら、情報障害(不便・困ること)が起こりますし、
心理的にも疎外感「仲間はずれにされた」という傷を負うことにもなります。

※ 情報障害は単に不便というだけのことではなく、安全を確保するための判断に必要な情報も入らないこととなりますので「身体の危険」にも直結してきます。

◆ 障害を無くすのも作り出すのも「人」です

社会環境に存在している障害を分類すると物理的なもの、制度的なもの、文化・情報的なもの、そして「人の心」に大きく分けられると思います。

物理的環境すなわち道路や都市施設・建築物を設計し整備するのは人です。
施策制度を作るのは人です。
文化を創るのも人、情報発信するのも人です。

つまり「人の心」がどうであるかによって、「障害」を作り出すこともできるし、無くすこともできるのです。

自分がこれから作る物・作る制度・発信する文化情報
自分には便利なものかも知れませんが、いろいろな機能の人にも便利なものですか?
そんなことを考えるのは面倒ですか?
それが障害(不便・困ること)を生み出すことになり、「仲間はずれ」になる人を作り出してしまいます。
逆に言えば、最初からユニバーサルデザイン(ユニバーサルデザイン参照)を意識していると障害(不便・困ること)を生み出さない、「仲間はずれになる人」を最大限に作らないことができるのです。

これは新製品を作るだとか何か行政で制度を作る、などということだけに関わるものではありません。
日常生活の上でも様々な場面でそのようなことがあります。

例えば

  • 「楽だから駅までバイクで行こう」
  • 「駐輪場は遠いから、駅の入り口の所の歩道に止めておこう」
  • 「人一人くらい歩けるくらいは、止めたって空いているから大丈夫」

  と、自分だけが便利になる行動をとったらどうでしょう。

 →歩道幅が狭くなり、多くの人の通行がしにくくなるという障害が発生します。
  車いす使用の方などにはバイクがなければ障害(不便・困ること)なく通行できていたものが、通行できなくなるという障害が発生します。
  見えない・見えにくい人が使っている歩行の手がかりが寸断されたり、衝突の危険を発生させることとなり、障害(不便・困ること)が生じます。
 では、ここで「駐輪場に止める」という少しの「他者を思う気持ち」があったらどうでしょう。

 本人にとっては「がまん」と感じることなのかも知れません。
 しかし、この「一人一人の少しのがまん」があるかどうかで、
 多くの人々に障害を作るか作らないかに大きく影響するのです。

 「みんなが止めているから一人くらい止めたって関係ないさ」ですか?
 「みんな」って誰でしょう。「みんな」って一人一人の集まりですよね。

 一人一人の心が「他者のこと」にも少しだけ目を向けるだけで、自分も含めたみんなが幸せになるのだと思います。

誘導ブロックの上にバイクや自転車が止めてある写真

こんなことはどうですか?

  • 歩きながらお菓子を食べるために包装のビニール袋をあけて、ゴミは持っていたくないからその袋を歩道にポイっとした。
  • 電車の中でスマホの動画を見ていて降りる駅に着いちゃったけど、そのまま動画を見ながら駅を歩くことにした。
  • 道で迷っている見えない人が何か聞いてきたけど、なんとなく無視した。
  • 学校のクラスの「お楽しみ会」の係になったので、いつも自分が得意で一等になれるゲームをすることにした。
  • 運動会で皆が応援に使う小旗を応援団の人が作っていて、まだまだたくさん作らなくてはいけなそうだったけど、自分は応援団じゃないし遊びたいから、見て見ぬふりをして帰った。
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