冊子p22p23 障害って何だろう・障害ってどこにあるんだろう [障害理解のための冊子の該当ページを縮小して掲載] ==========その内容ここから p22 ●本文: 社会に障害をなくす配慮のしくみや声かけの配慮があることで直子さんの生活から「障害」がなくなることがわかってもらえたと思います。では「障害」は見えない・見えにくい人など体に障害のある人だけに作りだされるもので、皆さんの周りにはないのでしょうか? ★イラスト お店の出入り口の前で楽しそうに立ち話をする三人の女子高生、その後ろにはお店を出ようとしている男性。出入り口がふさがれているので出るに出られない。男性は少し困惑している様子。 ●本文: お店を出入りする人が通りにくいという「障害」を作りだしています。自分たちの楽しいおしゃべりだけを考えるのではなく、周りの人に配慮して出入り口からはなれたところでおしゃべりをすれば「障害」はなくなります。 p23 ★上側のイラスト: おじいちゃんと食事をする幼児、幼児は高い椅子に座って食べている。 ●本文: 子ども用のいすをレストランが配慮し用意しています。これも社会にある障害をなくす配慮のひとつです。 ★下側のイラスト: 部活の遠征の荷物を持った高校生 遠征先の高校に向かっているが道に迷った。 高校生から歩いているおばちゃんの背中に向かって吹き出し: すみません、ABC高校はこっちですか。 そのおばちゃんは無視している、おばちゃんから心の声の吹き出し: めんどくさいよ その後ろなは犬の散歩をしながら歩いてくるおじさん。二人の様子に気づき ABC高校の方を指さしている。 ●本文: 「障害」は体に障害があってもなくても、だれにでも作りだされるだけでなく、利用しやすい道具や配慮によりなくせることもわかってもらえたと思います。 ==========内容ここまで [以下、解説書掲載内容] 目が見えれば、からだの不自由がなければ、障害(バリア)に直面することはないのでしょうか。 「からだが不自由」なのかどうかに関係なく、社会のあり方によって障害ができたりなくなったりしていることに気づくために、ごく普通にある日常生活の場面を紹介しています。 [冊子掲載のイラストの解説] p22:他者への配慮がない行動が障害となり、店に出入りしにくい状況を作っている例です。 p23上:レストランの責任において障害をなくす製品(座面の高い椅子)を用意しているので、子どもも快適に食事ができる例です。 下:情報不足により困っているときに、人の配慮があるかないかで障害ができたりなくなったりする例です。 ===イラストの解説ここまで 健常者であっても「自分のからだの状況に合った使いやすいものがあること」や「周囲の配慮があること」で、障害はなくなることに気づいていただけたと思います。 「誰にでも障害はあることだ」といっても、からだが不自由な人には障害が多く、そうでない人には少ないという現実があるのは、なぜでしょうか。 それは健常者には、自分のからだの状況に合わせた社会の配慮が十分にあるからです。 例えば、街中にはたくさんの案内板があります。目の見える人はこのような設備を利用(設備に依存)して知りたい情報を入手できます。垂直移動設備としては階段があります。足を自由に動かせる人はこのような設備を利用(設備に依存)できるので、上の階に上がれます。 健常者は、情報入手をするために依存できるツールが、体を移動させるために依存できる設備が、十分にある。つまり十分な配慮が社会から提供されているので、障害がとても少ないのです。 一方、この「からだの状況」に当てはまらない人は、社会からの配慮を受けられず依存先がない・少ないのですから、障害が当たり前に多くなります。 ○ 製品や設備を作る人、サービス提供のしくみを作る人は、健常者だけが使えるものを作るのか、多様な人が使えるものを作るのか。 ○ 自分だけが楽だから自分は楽しいからと、周囲の人のことを考えない行動をしてしまうのか、周囲の人のことを考えて行動するのか。 このようなことで、人は障害を作ることもなくすこともできるのです。 一定の状況の人だけに配慮するのではなく、多様な状況の人に配慮された社会ができれば、誰にも障害がない共生社会ができると確信しています。 IBM サイトに掲載されていたコラムから抜粋 「自立」とは社会の中に「依存」先を増やすこと 熊谷晋一郎 准教授(東京大学先端科学技術研究センター 当事者研究分野 准教授、小児科医) (略) これを障がい(*)者にあてはめると、障がい者も依存先がとても少ない。ありとあらゆるものが健常者向けにできていて、建物にも地域社会にも依存できません。必然、近親者などに依存先が集中してしまいます。自立とは、その逆で依存先が広がっている状態です。つまり、障がい者の自立には、多くの依存先が必要なのです。 (略) 健常者に依存先が必要ないかというとそうではありません。健常者はすでに自身に見合った依存先が複数あり、自分では意識せず当然のようにそれを利用しているだけです。 いつでも利用できるトイレがたくさんある、地震などでエレベーターやエスカレーターが止まっても、避難できる非常階段がある、疲れたら腰掛けられるベンチがあるなど、社会は健常者にとって多くの依存先にあふれています。健常者が何もせずとも得られている恩恵を、障がい者は、享受できていません。 ただ、これはしばしば誤解されるのですが、「依存先を増やそう」というメッセージの宛先は、障害を持つ当事者ではありません。依存先は、障がい者本人が自助努力で増やすことのできないものです。自助努力だと勘違いすると、医学モデル的なメッセージになってしまう。「依存先を増やそう」というのは、あくまでも社会へのメッセージです。社会に依存先という選択肢をたくさん提供してもらわねばならないのです。そして社会は、私たち全員のことです。一部の障がい者のことでもなければ、健常者だけでもありません。 これはもちろん高齢者にもあてはまります。「年を取る」ということは、個人差はあるにせよ誰もが徐々に身体が不自由になり、心身ともに障害が生じていくという現実でもあります。世界で最初に超高齢社会に突入した日本だからこそ、社会がすべての人に対して依存先をどう提供できるか、皆さんと一緒に考えていければ幸いです。 障がい(*):医学モデルで障害を捉えたいときは平仮名で、社会モデルで障害を捉えたいときは漢字で表したいと個人的に思っています。なぜかというと、個人の中に悪いものが宿っているわけではなく、社会の側に障害があるのだと言いたいからです。 全文はこちらから [コラムの全文がダウンロードできるQRコードを掲載]