冊子p6p7 直子の生活・屋内編 [障害理解のための冊子の該当ページを縮小して掲載] ==========その内容ここから p6 ★ページ一番上 いらすと: ほほえんでいる直子さんの顔 ○顔から吹き出し: 「見えるのがあたりまえ」で作られたものは私には使えないから、自分なりの工夫でなんとかしているものもけっこうあるの。 ★左上のイラスト: 墨字だけの表示の同じ形のドレッシングのボトル、片方に輪ゴム ●本文: 片方のビンに輪ゴムを巻いて中身を区別しています。 ★右上のイラスト: 2枚のポイントカード それぞれのカード右下に点字のシールが貼ってある ●本文: 何のカードかがわかるように点字シールをはっています。 ★左下のイラスト: 同じデザインの靴下、玉留めの数で色を区別している ●本文: 色を区別するために玉どめの数でわかるようにしています。 ★右下のイラスト: お財布の中身が見えている。1万円はそのまま、5千円は半分に折って、千円は4分の1に折って入れてある ●本文: おさつは種類で区別して入れています。 p7 ★ページ一番上 いらすと: 困った直子さんの顔 ○顔から吹き出し: こんなことは工夫も無理!!いろいろな人が製品やサービスを使うことを作り手が意識してくれたら障害は作りだされないのではないでしょうか。 ★上側のイラスト: パソコンの画面 画像で作られていて音声で読み上げられない。スピーカーからは音声が出ていないイメージ ●本文: 読み上げソフトなどに対応した「作り方のルール」を守っていないホームページは、音声で読み上げられません。 ★左下のイラスト: 電磁調理器のタッチパネル式の操作盤 ●本文: 見える人しか操作できません。さわると音がでて操作できるしくみがあれば使えます。 ★右下のイラスト: 墨字の本 ●本文: 見える人しか読めません。テキストデータなどの提供があれば読めます。 ==========内容ここまで [以下、解説書掲載内容] :製品やサービスの作り手の意識で障害が作られたりなくなったりする 少しの工夫で障害をなくすことができる まだまだ多くの製品は「見えるのが当たり前」で作られているので、見えない人に「情報が伝わらない障害」があります。 p6自分の工夫でなくせる障害を紹介しています。 [冊子掲載のイラストの解説] 左上:形も手触りも同じボトルの片方に輪ゴムをつけて、触覚と記憶で区別できるようにしている例です。 右上:何のカードか伝わるように点字を書いたシールを貼ってわかるようにしている例です。 左下:形も手触りも同じ靴下に数の異なる玉止めをつけて、触覚と記憶で色の区別をしている例です。 右下:お札を間違いなく取り出せるように、折り方を変えて、触覚と記憶で区別している例です。 ===イラストの解説ここまで p7自分ではなくせない障害を紹介しています。 [冊子掲載のイラストの解説] 上:画面読み上げソフトがインストールされていて障害のないパソコンなのですが、コンテンツの作り方が読み上げソフトに対応していないので、目で見ないと内容が伝わらず、操作できなくなってしまっています。 左下:目で見ないと状況が伝わらず、操作できない電磁調理器です。 右下:目が見えないと読めない印刷物です。 ===イラストの解説ここまで これらは作り手が見えるのが当たり前の意識であるために作られた障害です。とりわけWebコンテンツについては読み上げソフトなどに対応した「作り方のルール」が定められていますが、それを知らない人がほとんどです。 社会(作り手)の配慮がないために、本来自分で解決できることが、「見える人に頼んで言葉で伝えてもらう、または操作を代行してもらうこと」でしか解決ができません。個人の責任で他の人の「やさしさ」に頼らざるを得ないのが現実です。 作り手が自分の状況が当たり前ではないことを理解し、多様な人たちへの最大限の配慮をする意識を持つことにより障害はなくなります。 『尊厳なきバリアフリー』のスクリーンショット 3-7「あたりまえ」と「やさしい」の間にある差別 私は決して「やさしさ」や「思いやり」を否定しているわけではない。むしろ人間として欠いてはならないものだと思っている。しかしそれは権利や尊厳という価値観によって平等な社会参加という基盤ができたうえで、その質を高めていくという方向性の中で使われるべきだ。決して、「やさしさ」や「思いやり」によって平等な社会参加が実現できると考えてはならない。 平等に暮らせるようになればそれこそが「やさしさ」と「思いやり」のある社 会と言えるのではないかという意見があるとすれば、それは隠された差別意識によるものだと言うことができる。 妻に暴力をふるう夫がいる。ある日その夫は態度を改め、暴力をふるわなくなった。この夫は「やさしくなった」と言えるのだろうか。 夫はやさしくなったのではなく、「あたりまえ」になっただけである。今まで暴力をふるっていたことが異常だったのだ。 今まで社会に参加させてもらえなかった障害のある人が、平等に参加でき、暮らせるようになったとしたら、それは他の人と同じレベルになるだけで、人間として「あたりまえ」になるだけである。ただ「あたりまえ」になるだけのことを「やさしい」と言うとしたら、障害のある人には他の人とは低いレベル…他の人にとっては参加できることはあたりまえだけど障害のある人は参加できないことがあたりまえだというレベルの違い…を前提としているということである(図3-2:多くの人は参加できるのが当たり前だが、高齢の人や障害のある人に対しては参加できないのが当たり前だというところから始まるので、参加できただけで「やさしい」と考えてしまう)。これこそが差別というのではないだろうか。 アクセシブルなまちづくりのことは、よく「人にやさしいまちづくり」と呼ばれている。障害のある人からの行政への要求にも「人にやさしいまちづくり」をとの文言がしばしば出てくる。しかしその実質は、多くの人が自由に行動しているのと同等な環境を障害のある人にも整備してほしいというものであり、バリアだらけの現状を、他の人がバリアなど感じなくてすんでいるような「あたりまえ」の状態にしてほしいという求めである。これを「やさしい」と言うとしたら、先述のように、それ自体が差別的な考え方で、障害のある人自身がそのことに気づいていないという、はなはだ深刻な事態である。 『尊厳なきバリアフリー』 川内美彦 著 より引用 出版社:現代書館 ※テキストデータ請求券付き 絵 直子さんのイラストから吹き出し: この配慮が欲しかったのです