更新日:2017年9月17日
「見える人が、アイマスクをして歩いてみる」ということは、見えない状態の本質的理解につながりにくいことと考えられます。むしろ誤解を生む可能性が高いです。
◆ 見える人が突然視覚遮断された状況と、見えない状態で生活している人とはまるで違います。
「見えない人の理解」というと、「アイマスクをつけての歩行」を行っているところが多くあります。
「歩く」ということは、
単に「足を交互に出す」という動作だけではありません。
見える人は今歩いているところは、歩道なのか車道との区別がない道なのか、どれだけの道幅があるのか、その道幅のどのあたりを歩いているのか、電柱やポールがどこにどの間隔であるのか、どんな人がどの方向に何人ぐらいどんなスピードで歩いているのか、など大量の視覚情報を、気付かないままに入手して気付かないままに処理して歩いているのです。
つまり視覚情報をたよりにして、その他の情報は伝わってはいる物のあまり利用していない状況で歩いているのです。
それに対して見えない・見えにくい人は、視覚以外からの情報を有効利用しています。ですので誘導者といっしょに歩くだけで多くの情報が得られ、障害は激減するのです。
人が外界から収集する情報の80%以上は視覚から得ると言われています。
人は必要な情報が十分に得られないと、不安を感じます。
座っていて動かないで安全な状況であるときさえ、アイマスクをすると、今まで確認できていた周囲の状況が視覚から入らなくなるために「怖い」という感情が起こります。
まして、「歩く」ということは身体を移動させることであり、そのために通常は膨大な視覚情報を得て行っている動作ですから、突然視覚をふさいだ状態で「歩きましょう」と言われることは、とても不安なのが当たり前です。怖くて当たり前です。何もできなくて当たり前です。
見えている人がアイマスクで視覚情報を遮断されるという慣れない環境の中で、今まで気にかけていない情報(*1)に気付き、それを瞬時に有効利用できることはまずありえないことです。
(*1)周囲の音(聴覚情報や空気の動き(触覚情報)などの、見えない人が有効活用している視覚以外から得られる情報
次のような感想が出るのも「アイマスク歩行」を簡単なものと考え、実施した結果と考えます。
ある小学校でのアイマスク歩行体験の感想より抜粋
○ アイマスクをすると、隣で友達が誘導してくれていても、ちょっとしたエンジン音でも驚いてしまいます。
○ 目が見えないと、本当に怖かったです。 車にひかれそうだし転びそうだし。目が見えないということは、本当に恐いことだと思いました。
○ 目の前の何かにぶつかりそうな気がして、空中で手を動かして確認しないと前に進めませんでした。
○ 誘導するときには細かいところまで知らせなければならないので、思ったより大変でした。
言うならば、
突然視覚をふさがれて怖がっている児童を、どう声かけして誘導したらいいか、よくわからない児童が誘導する。
誘導する人も誘導される人も、経験という情報不足からくる不安の中で「怖い」体験をすることが、果たして「見えない・見えにくい人」の正しい理解につながるのでしょうか?
◆ 「怖い・できない」といった感覚的印象が残りやすいため、アイマスク体験はおすすめいたしません。
なぜならば、
「見えないと怖い→何もできない」→「見えない人はかわいそう」
そしてこの先には「自分は見えていてよかった」という気持ちから、見えない人への「哀れみの差別感」を呼び起こし、その差別を助長してしまう危険性があると考えられるからです。
特に感覚でとらえたことが強く印象づけられる児童期の子供にはおすすめいたしません。
このような「見えないと怖くて何もできない」という体験だけをしたこどもが、万が一将来失明するようなことがあったとき、
「学校でアイマスク体験をしたときには怖くて何もできなかった。見えなくなった自分はもう何もできない。ずっと怖い世界にいるのだ。もう絶望だ!」
そして、もし、「見えていて良かった」とかつて思っていたとしたら、「見えなくなった自分」は「かわいそうな何もできない人」ということになり、生きることに悲観的になってしまうかもしれません。
◆わからない・できないことの原因を正しく理解することが難しい
ちらしや案内板など、社会には「見えることがあたりまえ」とした情報の伝え方がとても多いです。見なくても情報が伝わる仕組みがあったらどうでしょう。
わからないことはありませんよね。
「わからない」の原因が「情報発信の仕方が見えるのがあたりまえの考え方でされていること」にあるわけですが、なかなかできない原因がこのことにあることに気づかないものです。
「わからないのは見えないからだ」と視覚の欠損に原因を結びつけてしまうという決してしてほしくない理解に結びつけがちになってしまいます。
見える人は、いろいろな動作を見てやっていますね。いままで見てやっていたことを突然見ないでやれというのは「いままでやったことがないことをやれ」と言うことですので、それはできなくてあたりまえですよね。
「できない」の原因が「今までやったことがない」という経験不足にあるわけですが、なかなかできない原因がこのことにあることに気づかないものです。
「できないのは見えないからだ」と視覚の欠損に原因を結びつけてしまうという決してしてほしくない理解に結びつけがちになってしまいます。
アイマスク体験は障害が作り出される原因が社会にあることには着目できず、身体機能の欠損に意識が向いてしまい、障害の正しい理解に繋がらなくなる可能性が極めて高いです。
◆ どうしてもアイマスク体験をするのならば、
まずは指導者が障害について正しい理解をすることが必要です。
見えない人が日常どう社会と関わっているのかについてのことや、社会のあり方で見えないことが障害とはならないこと(障害とは参照)について当事者から直接話を聞いて十分に理解してください。
その上で安全を確保し、児童には、情報遮断の怖さには決して注意を向けないことを十分に理解させた上で実施してください。
そしてその体験は
「聞いてわかる、さわってわかる」などの
見なくても「できる・わかる体験」にしてください。
もし、この体験を、万全の体制でできたならば、
たとえ中途失明したときにも決して上のような悲観的な考えにはならないことでしょう。
また大学生や社会人などが、
「突然視覚をふさがれた感情に着目しない」という気持ちのコントロールをした上で、
より十分な時間を使い、当事者のファシリテーターの下で行うことができるならば、
「どんな製品使用ならば見えない・見えにくい人にも使いやすいか(障害はないか)、どんな配慮があれば見えない・見えにくい人にも障害(不便・たいへん)はなくなるか、どんな情報発信の仕方をすれば見えない・見えにくい人にも障害(不便・たいへん)はなくなるか」などに気づく時間として活用してもらいたいと思います。
◆ 障害を無くす行動の獲得
見えない・見えにくい人が情報不足で障害が生じているときに、周囲の人のちょっとした声かけ・言葉での情報提供があることで、その障害は激減します。
ですので、見える皆さんに
どのように声をかけ、どのように道案内(誘導)などしたらいいのか」ということの一般的基本的な方法について体験していただくことは心から歓迎いたします。
しかし、先にも書いたように
「突然視覚をふさがれた見える人」を誘導する体験は望ましくないものと考えます。
むしろ悪影響が残ると考えられます。
ぜひ、見えない・見えにくい人を誘導する体験をしてください。