雇用を進める会のあらまし

五十嵐光雄(口述) 田中重幸(執筆)

1、結成の経過

まず、理療科の制度が大きく変わったのが1973年、それまで理療科専攻科といって高1から理療課程に入って専攻科2年までという制度だったのが、高3までは普通科とし、それから専門教育を行うという事になって、1973年4月から教育課程改定により全国的に高卒後3年の理療科の制度になった。これからは、中途失明者が多く入ってくるから、これまでの、小、中、高校生と一緒の扱いはやめましょうという事になり、もっと大人らしい活動ができるように組織分離が図られ、それまで一緒だった生徒会の方も分離して、専攻科理療科、保健理療科をあわせて名称を「学生会」と変更した。それから、教職員の方も分離して理療科だけ一つの部屋を持つことになった。これについては相当の抵抗があったが、分離しての第一期専攻科理療科の一年生は19人で人数も多く優秀な学生も多かったこともあり、切り換えてよかったと実感したものである。ただし、初年度の一年生は余り運動をすることはなかったが、2年目、3年目となるにしたがい、だんだんと学生の方も学生会としての固有の問題も抱えながら少しずつ動きだした。

一方、教職員の方も理療科を中心に、普通科やその他の職員もはいって「社会福祉研究会」(社福研)が組織され問題意識が深まっていった。

1976年、4年目の時に学生は1年間就職問題で独自にいろいろと動いたが、時間的限界や組織のつながりのなさ等いろいろな問題で「自分達の力だけでは限界がある、是非協力してほしい」という学生側からの要請が教員の社福研にあり、1977年2月頃から雇用問題を取り組む組織の結成準備が開始された。準備を進める中で、「こういう運動を起こすのだが、おそらく障害者だけで集まっただけでは県に対して力とならない」という考えで、当時、神奈川県地方労働組合評議会(県評)の事務局次長をしていた小野間さんに相談し県評の力を借りることになった。県評には結成の準備会から参加してもらい、教員の社福研と学生会および労働団体である県評と障害者団体として神奈川視力障害者の生活と権利を守る会の4団体が中心となって準備会が組織された。

結成会場は、開港記念会館が横浜の港との関連でふさわしいということになり、1977年5月7日「神奈川県視覚障害者の雇用を進める会」結成総会が開催された。その後、具体的運動の方向性を確立する為、同年6月初めに第2回総会を開催し運動方針等を決定した。

同時に、「視覚障害者の雇用白書」を藤沢の点訳奉仕会青年部の協力により作成し、視覚障害者の雇用実態を明らかにした。次に同年6月の県議会に、視覚障害者の雇用を進める為の請願書を提出し、白書を背景にしながら各会派を回って要請行動を展開していった。

2、「いのくら」加盟への経過

当時、構成団体の一つである県評の常任幹事である野口さん(県評オルグ)と活動を共にする間に県評の主催する「いのくら」(県民のいのちとくらしを守る共同行動委員会)の存在を知り、野口さんより「今後長く運動を続けていくためには「いのくら」に加入した方がやりやすいのでは」との助言を受け加入することになった。

1977年9月になり、障害者雇用月間であるにもかかわらず社会的に視覚障害者の実態が全く明らかにならないということがあり、町に出てアピールしようという考えから伊勢佐木町通りをビラをまきながら、宣伝カーを先頭にデモ行進を行った。そして第1回の対県交渉にはいっていった。

3、本会1期目の交渉経過

このような運動体を組織した以上は何か一つでも運動の成果を実らせないことには組織が崩壊してしまうのではとの危機感があり、かなり積極的な働きかけを行った。具体的に本会として「タマ」(就職希望者)を二人突き付けて、これを雇用させるよう交渉を展開していった。しかし、県側(当時は労働部長)の回答ははっきりせず、「こんなことができないのでは、それでも大福祉県神奈川か」と怒鳴りつけた場面もあった。そうした中で、2月にはいり、突然、田中労働部長から個別の話がはいり、3月には急にめまぐるしく展開し労働部長との詰めを行い逗子と三崎の老人保養所へのあはき師(あん摩マッサージ指圧師・はり師・きゅう師)としての雇用が決定した。なお、採用された二人は、前年の夏休みに目標を持って保養所での実習を行っており、このことも功を奏したことは確かである。

2年目も具体的な「タマ」を何名かあげて交渉を進めていった。その結果、公的病院へのマッサージ師の採用、神奈川県リハビリテーションセンター七沢老人病院(現:脳血管センター)へのあはき師の採用が決まった。七沢病院の東洋医学科では、県が相当の費用をだしながら晴眼者のあはき師しか採用しておらず、「同じ免許をだしながら晴眼者のあはき師しか採用しないのはおかしい」という点を強く主張した結果、雇用が実現したものである。

また、あはき以外の職種として福祉職での採用の交渉を進め、神奈川県立中央児童相談所への採用が実現した。

このように、個別課題での交渉が1年目、2年目と成果を上げていったが、県側より「今後は一般的な原則でやっていきましょう」という提案があり別枠採用の方式が始まった。別枠方式での初めての採用として、知事部局へのヘルスキーパーと電話交換手採用が第1号であった。

4、その他の課題

雇用の周辺課題として、一般の職業訓練校では、1年間職業訓練手当てがでているが、理療科の場合これが適用にならない為、これに準じたものを考えるよう交渉の場にのせていった。その結果、月額3万円という形で「視覚障害者技能習得援助資金貸付事業」制度の新設を勝ち取った。

一般採用試験での点字受験についても、この頃交渉を進め点字受験が実現した。しかしながら、関連課題である、障害種別、程度別の雇用については実現できなかった。また、その当時はヘルスキーパーを民間企業に進めるという点についても実現には至らなかった。

当初より相談業務とあはき関係はいけると考えていたため、あはきでは保養所、病院、福祉施設、ヘルスキーパー職種を広げながら一つ一つ課題を実現していった。具体的には、別枠採用制度の中で、視覚障害者にとってどのような職種があるかという交渉の中から福祉施設でのあはき師として、県立の療護施設であるさがみ緑風園への採用と県立厚木病院、県立足柄上病院での採用が実現した。

当時、東京ワークショップの松井先生との連携の中で、視覚障害者の可能性として録音タイピストはいけるのではないかということで交渉課題に乗せ、結果的にはふさわしい人が採用されることになった。これは、やはり個別ではなく別枠採用のなかでの職種指定という形で交渉を進めていったものである。

また、交渉相手は県だけでは駄目なので、政令指定都市にも広げていったことにより横浜市の図書館職員の採用が実現した。関連して、県下37市町村アンケート調査(1978年)を実施したことや教育委員会にも矛先を向け養護学校での実習助手としての雇用も実現できたことなど運動の成果は着実に前進していった。

卒後教育、卒後研修という点から、研修期間の必要性を考え研修センター構想を県側に提案した。「いのくら」交渉の席上、県衛生部に対し「神奈川県としてもあはきの資格を取った後でもいろいろ研修が必要であるし、研究する機関も必要であるから研修センターを作りなさい」ということを提案していった。その結果プロジェクトチームまで出来たが。残念ながらその後の進展は得られなかった。

5、むすび

本会が結成された1977年は自分にとって3つの運動を開始した年でもあった。1つは本会の運動であり、もう1つは、藤沢の長後地区に「ありのみ会」という障害者とその家族や地域の住民の有志で構成する団体を結成し、いわゆるコミュニティ福祉運動を開始したことである。現在はこれが長後と湘南台の2つに分かれて活動している。もう一つは地域作業所の第1号を開設し施設づくりをスタートさせた。これが、現在の光友会へと発展したのである。