田中重幸

1977年に雇用を進める会結成後、労働部長を窓口に進められた交渉により1978年の老人保養所の採用に引き続いて翌1979年4月には、民生部(現:福祉部)の中央児童相談所に福祉職として採用が実現した。本会の要望が福祉相談員ということであった為児童相談所への配属となったが、部の採用方針としては福祉職の新人はまず施設現場に配属するのが一般的であることから考えると、当局側に本会への配慮があったものと思われる。

採用第1号は弱視者であったが、その後も本会としては重度視覚障害者の雇用に重点をおいた交渉を進めていった。その結果、1983年4月には点字使用者の婦人相談所への採用が実現した。点字使用者の採用により、現場では障害者が業務を行う上での配慮を余儀なくされ音声対応機器の整備、ワークアシスタントの配置をはじめ様々な試みがなされていった。勿論、こうした試みは障害当事者の現場での訴えが基になって行われたものだが、「いのくら」(県民のいのちとくらしを守る共同行動委員会)交渉における本会の主張が県側を動かしたことは明らかである。

婦人相談所に採用されたSさんは、1989年に中央児童相談所に異動となったが、新たにNさん(点字使用者)が婦人相談所に採用となり、この時点で福祉職の視覚障害者は弱視1名(現:総合療育相談センター)、点字使用2名(現:中央児相談所、婦人相談所)の計3名となった。その後、婦人相談所のNさんが1994年3月に退職し翌1994年7月にKさん(点字使用者)が後任に採用された経過があるが全体数は3名のままである。

福祉職の場合、職場によって業務内容が大きく異なることから、その中で視覚障害者がどのように自己の仕事のスタイルを確立するか、また、周囲のスタッフと連携をどのように図るかといった課題があることは確かであるが、運動面においては、これまでの実績を大切にしながら職域の拡大に連動した新規採用の実現を図る必要があると思われる。

なお、本会の運動により県に採用された人達は、その後、県職員の立場での様々な障害者問題に取り組み、労働組合運動の中で運動を具体化していった。その成果は「自治労県職労ノーマライゼーションを進める会」として組織化されている。 contents