神崎好喜

神奈川県に、非常勤ながらMさん(男性、弱視)が、初めてヘルスキーパーとして採用されたのは1981年、県庁内の健康管理センターで業務が始まった。しかし、一向に、需要が出ない。PRの不足や隣人への気兼ねが、原因のようだった。そこで、需要が見込まれる福祉施設への巡回が始まり、業務量も増え2年後には常勤化された。

次いで、雇用を進める会は、神奈川県教育庁に対し、主に県立養護学校の教職員を対象とした、ヘルスキーパー採用要求を掲げた。要求の根拠は、①知事部局には、既にヘルスキーパーが採用されていること、②特に、養護学校の教職員には腰痛が多く、ヘルスキーパーへのニーズが高いことである。

養護学校でのヘルスキーパーの有用性については、以下の実践があった。

第1は、横浜市立盲学校専攻科の教育課程に、位置付けられていた校外臨床実習で、生徒が横浜市立の養護学校へ出掛け、そこの教職員を対象に実習を行っていたことである。当然のことながら、治療効果は上がっていたし、受療者の評判も良かった。

第2は、神奈川県立平塚盲学校が、近隣校の教職員に行ったアンケートである。これは、教職員が持っている症状、あはき(あん摩・マッサージ・指圧・はり・きゅう)の受療経験、受療希望と希望を阻害する要因等を調べたもので、その主な点は、養護学校の教職員の方が、他の教職員より腰痛や肩こりの症状が多いこと、症状が強い教職員ほど、あはきの希望が高いこと、受療希望を阻害する要因は、施術料金の高さや帰宅後も開いている施術所がない等のことであった。

この実績を手に、神奈川県教育庁と交渉した結果、腰痛予防対策事業の中に、腰痛体操やマッサージの指導を加え、非常勤マッサージ師を採用するということになり、1985年4月にSさん(男性、弱視)が、ヘルスキーパー第2号となった。その後のことにも関係するので、あえてここに記すが、当事の学校保健課の主管は、あん摩マッサージ指圧師だけでなく、はり師、きゅう師の資格を持った人を望んでいた。これは本会に、いずれ、はり・きゅうも導入するという強い示唆を与えるものであった。

Sさんは、組織的には指導部学校保健課(本来は県立学校の児童・生徒の健康管理を担当する部署)に配属されて三ッ境養護学校に駐在し、実際には、曜日ごとに養護学校を巡回することになったのだが、卒業早々のSさんには、養護学校の教職員を対象とした、公務員ヘルスキーパーとして、何をすればいいのかも不明確な状況であり、大変厳しい日々であったことだろう。それに、1年たっても2年たっても常勤化のめどがみえてこないのだ。

本会は、ともかく、常勤化を最優先課題として交渉・折衝を重ねる一方、トップダウンも模索、最終的には「いのくら」(県民のいのちとくらしを守る共同行動委員会)の副知事交渉に乗せた。そして副知事から、「ヘルスキーパーは、他県にないもので効果を上げている。1988年4月から常勤化する。」との解答を得た。これにより、長かった3年の常勤化運動が勝利したのだ。そして、残った課題が、複数化とはり・きゅうの導入である。

ある時期、学校保健課は複数化の可能性を匂わせたことがあった。しかし、未だに実現していない。それより重大なのは、前述したはり・きゅうの導入の示唆だ。学校保健課は、マッサージは予防だが、はり・きゅうは治療。治療の面倒まで、雇用主が負うのは、おかしいと言っている。

この問題を巡る本会と同課との交渉は膠着状態にある。どういう着地点になるかはわからないが、ともかく、これまでとは、違う切り口での交渉を行わない限り、解決を図るのは難しい。ヘルスキーパーの業務のあり方も含め、再度運動を立て直す必要がありそうである。