神崎好喜
特別養護老人ホーム(特養)の設置規準に、機能回復訓練指導員の配置がある。厚生事務次官通達では、この業務に当たるのは、理学療法士や作業療法士が望ましいとされている。しかし、同時に、「当分の間、マッサージ師や看護婦を当ててもいい。」とも謳われている。
この通達を具体化した事例が東京にあった。東京都福祉局は、特養がマッサージ師を雇用して機能回復訓練指導業務に当たらせた場合、その特養にマッサージ師の人権費を補助する制度を設けている。現在では、都内の特養は220ヶ所、うち60名が全盲のマッサージ師だという。
視覚障害あはき師(あん摩マッサージ指圧師・はり師・きゅう師)の就業環境の悪化につれ、盲学校の進路指導職員や雇用促進運動家は、あはき(あん摩・マッサージ・指圧・はり・きゅう)による新たな職域開拓に力を入れた。その一つが、この特養マッサージ師だ。当然、雇用を進める会も、神奈川県内の特養での視覚障害あはき師雇用に向けた運動に取り組んだが、それは一言で言って茨の道だった。
本会の要求は「県立特養へ視覚障害あはき師を採用すること。」であるが、「あはき師=あん摩さん、あん摩は、個人の趣味だ。」という認識しかない県にとって、この要求の理解は、いかにも難しかったようだ。特養で、あはき師が何をするのか、あはき師に訓練ができるのか等々、本会は盲学校のカリキュラムや現に特養で働いている事例を示して、そうした無知、ゆえの疑問、差別的思考を順々に解いていった。時には、「訓練の必要な入所者は少ない。」という老人福祉課(現:高齢者施設課)の課長代理に「お前は医師か?医師でもないお前に、何で医学的判断ができるのか?俺は、独立開業権のあるあはき師だ。無資格のお前より、俺の判断の方が有効だ。」と怒鳴りつける場面さえあった。
こんなやりとりから、老人福祉課が考え出したのが、特別養護老人ホームマッサージ師派遣モデル事業(モデル事業)である。1989年春、本会に「県立特養でマッサージ師を採用するのは、需要や定数の関係で難しい。その代わり、民間の特養が、マッサージ師を雇用して近隣の特養にも巡回させれば需要も出る。そうした事業に依託費を出す。」という話があった。そして具体的な雇用先(相模原老人ホーム)と巡回先の特養の名称も示された。
本会は、この話を了承し、県内3盲学校へ求人案内をするよう求めた。その結果、その年の夏に、県内3盲学校に相模原老人ホームで説明会が行われた。
そして、翌年1月に面接があり、同年2月にKさん(男性、弱視)が採用内定となった。Kさんは、学友会の会長で、本会の運動の経過や、この事業が県内全域へ拡大を図るモデルであることを十分心得た人だ。故に、この話は順調に進むかにみえた。ところが、内定直後、Kさんが急死したのである。担い手がいなければ、この事業は始まらない。急死したKさんへの思いを残しつつ、関係者は頭を悩ませた。そしてようやく、採用は遅れたもののTさん(男性、弱視)という別の担い手を探し、これまでの経過やこの事業の意味を説明し、働き出してもらった。
その後、県と本会は、モデル事業の実施状況を共に見守ってきた。当然のことながら、入所者の評判はいい。問題は巡回先の多さである。これを解決する最良の策はマッサージ師を増やすことだ。それは、視覚障害者の雇用促進にもなる。本会は、一環してその方向を取り続けてきた。
しかし、予期しないことが起きた。その第1はTさんの退職、第2は県財政の悪化だ。前者については、別のYさん(男性、弱視)の出現で対応できた。しかし、問題は後者。依託費カットの折から事業の具体的効果を早急に出さなければならない。これまでにも、いろいろな手法で効果評価をしてきたが、より厳しい財政当局からの絞め付けがある。どうしたら、マッサージという効果判定の難しい、心への作用も大きなものの意味を財政当局に理解させるか、それなりのデータと理論構築が必要であろう。