◆「障害」の世界的考え方
世界保健機関(WHO)は、2001年に国際生活機能分類ICF(国際障害分類改訂版)を発表しました。
以前には
障害は、「その個人の心身の機能障害(Impairment)」があることで、「能力障害」(Disability)が生じ、機能障害や能力障害の結果としてその個人に生じる「社会的不利」(Handicaps)が生まれる。
と、障害はその原因を、個人の医学的な心身機能に起因するものとして捉えていました。これを個人モデル(医学モデル)といいます。
しかし、人は社会環境と大きく関わって生活していることから、国際生活機能分類を制定しました。
日本の政府も、保険・医療・福祉・教育・行政などすべての職域、領域を超えて、国際生活機能分類を共通の概念、用語として用いるということを決めました。
国際生活機能分類は、疾病や障害の有無に関わらず、すべての人が生活の中で関る健康上のあらゆる問題について、共通した見方やとらえ方をします。
「人の生活機能は環境との相互作用で大きく左右される」という視点でとらえています。
つまり、社会環境(物理的・制度的・文化的・周囲の人の意識)によって障害(バリア)は作り出されたりなくなったりするということです。
また、心身機能が同じ状態であっても、その人がどのような背景(個人因子)をもち、どこで誰と(環境因子)生活するかによって、日々の生活における活動や参加の状態は異なります。
「社会環境のあり方がどのようになっているか」という点に着目しなければ「障害」を正しくとらえることはできない。
というのが世界的な考え方になりました。これを「社会モデル」といいます。
障害者権利条約もこの考え方が謳われています。
そして国内法である2016年4月から施行された障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律(差別解消法)も、この考え方が謳われています。
◆社会環境のあり方で、障害(バリア)は作り出されたりなくなったりします
★ 車いす使用の人
・建物の内外に段差がない
・垂直移動にはエレベーターがある
・扉は自動あるいは引き戸で開閉が容易
などでしたら、障害はないので困りません。
しかし、
・美しいエントランスだが、微妙な段差がある
・「二本足で移動することが当たり前」とした階段での垂直移動の手段しか設けられていない
・立派なまるで調度品のような重厚な扉が入り口にある
といった建物では障害があるので、困りごとに直面させられてしまいます。
心理的にも疎外感「仲間はずれにされた」という傷を負うことにもなります。
※決して美しい建物がいけないと言っているのではありません。
★ 聞こえない・聞きにくい人
・駅構内や車内アナウンス、館内放送の内容が見やすい文字情報で表示される
・対話の相手が手話や筆談での会話に快く対応する
などでしたら、障害はなく困りません。
しかし、
・お知らせは「聞こえることが当たり前」とした音声による放送だけ
・対話の相手が「めんどうだな」と思いながら筆談する
といった状況でしたら、障害があるので困りごとに直面させられてしまいます。
★ 見えない・見えにくい人
・大きく見やすい文字、および音声や点字での情報提供がある
・点字ブロック、音声案内や人的サポートの制度が充実していて、歩行に必要な情報が容易に得られる
などでしたら、障害がないので困りません。
しかし
・「見えることが当たり前」とした文字情報だけでの情報提供しかない
・視覚以外の歩行に必要な情報が存在しない
といった状況でしたら、障害があるので困りごとに直面させられてしまいます。
心理的にも疎外感「仲間はずれにされた」という傷を負うことにもなります。
★健常者
健常者であっても、
・製品の使い方が理解できなかったり
・現在は健康であっても過去の疾病歴などから、いわれのない差別を受けたり
・周囲の人が非協力的だったりすることで
障害が作り出されて困りごとに直面させられてしまいます。
・また出身地や人種・体格などにより差別されることでも大きな障害が作り出されます。
このように、その人の身体や背景がどのようでも、その人に関わる様々な生活環境(*)が、どういう状況であるかによって、
障害(バリア)が作り出されたり増えたり、なくなったり減ったり するのです。
(*)その人に関わる人の心が、その人を理解し受け入れ好意的な態度であるかどうか
その人の利用するサービス・情報提供・制度などで差別を受けていないか
その人にとって使い方を熟知した使いやすい道具があるか
その人の移動に必要な手段・安全・情報が確保されているか など。
◆ 障害を作り出すのもなくすのも「人」です
社会環境に存在している障害を分類すると物理的なもの、制度的なもの、文化・情報的なもの、そして「人の意識」に大きく分けられます。
物理的環境すなわち道路や都市施設・建築物を設計し整備するのは人です。
施策・制度を作るのは人です。
文化を創るのも人、情報発信するのも人です。
つまり「人の意識」がどのようであるかによって、「障害」を作り出すこともできるし、無くすこともできるのです。
自分がこれから作る物・作る制度・発信する文化情報、自分には便利なものかもしれませんが、いろいろな人にも便利なものですか?
そんなことを考えるのは面倒ですか?
多様な人たちのことを意識しないことが障害を作り出すこととなり、困りごとに直面させられる人ができてしまいます。
「社会から仲間はずれにされる人を作り出されてしまう」とも言えます。
逆に言えば、最初から多様な人たちのことを意識していると障害を作り出さないので、「仲間はずれになる人」を最大限に作らないことができるのです。
これは新製品を作るだとか何か行政で制度を作る、などということだけに関わるものではありません。
日常生活の上でも様々な場面でそのようなことがあります。
例えば
・「楽だから駅までバイクで行こう」
・「駐輪場は遠いから、駅の入り口の所の歩道に止めておこう」
・「歩道に止めたって、人一人くらいは歩けるだけは空いているから大丈夫」
と、自分だけが便利になる行動をとったらどうでしょう。
この障害で歩道幅が狭くなり、多くの人の通行がしにくくなるという困りごとができます。
では、ここで「駐輪場に止める」という少しの配慮(他者を思う気持ち)があったらどうでしょう。
本人にとっては「がまんをする」という行動をとらなければならないことになるのかもしれません。
ですが、一人一人が少しの配慮ができるかどうかで多くの人々に障害を作るか作らないかに大きく影響するのです。
「みんなが止めているから一人くらい止めたって関係ないさ」ですか?
「みんな」って誰でしょう。「みんな」って一人一人の集まりですよね。
一人一人の心が「他者のこと」にも少しだけ目を向けるだけで、自分も含めたみんなが幸せになるのだと思います。
こんなことはどうですか?
○歩きながらお菓子を食べるために包装のビニール袋をあけて、ゴミは持っていたくないからその袋を歩道にポイっとした
○電車の中でスマホの動画を見ていて降りる駅に着いちゃったけど、そのまま動画を見ながら駅を歩くことにした。
○道で迷っている人が何か聞いてきたけど、なんとなく無視した。
○学校のクラスの「お楽しみ会」の係になったので、いつも自分が得意で一等になれるゲームをすることにした。
○運動会で皆が応援に使う小旗を応援団の人が作っていて、まだまだたくさん作らなくてはいけなそうだったけど、自分は応援団じゃないし遊びたいから、見て見ぬふりをして帰った。
○コンビニで買い物をして出口のドアを開けたところで友達にばったり会ったからそのままそこで立ち話をしてた。